
朝鮮小壺。小型とあなどって手に取ると、存外重い。分厚い。垢抜けない。糸底は粗削りだし、貫入には粗密が著しく、正面も裏も視定めがたい。つまり観賞を意図していない丈夫専一で、実用一点張りの品だ。土間に落したくらいでは割れそうもない。
台所の隅で、塩か油でも収めたものか。まさか香炉の代用か線香立てでもあるまい。製作時代の用途目的については、聴き漏らした。
湯島の喫茶店を兼ねた骨董屋で入手した。通りすがりにいく度か覗いて、面白い店だと口にしたら、母が異様な関心を示したので、一度だけ案内したことがあった。うず高い古道具に埋れたテーブルで珈琲を飲むのを、母も面白がった。親孝行なんぞしたこともなかったし、さような習慣のある家でもなかったから、奇妙な気分だった。
記念になにか買おうかと思い立ち、それまでは眺めるだけだったのに、後にも先にもその時一回だけ買物をしたのが、この小壺だった。それまでの冷かしのさなかに眼を惹かれた品物がいくつかあったから、選ぶにさほどの迷いはなかった。

雲南省昆明まで、ツアー客の雑用係として随行したことがあった。黄色い椿が咲いているというので、ホントカイナと確かめに行く園芸愛好家のツアーだった。
赤・黄・青の三元色素を併せもつ花は自然界にはなく、いかに多彩な花だとて宿命的に出ようがない色がある、というのが園芸界の常識だった。椿には黄花はありえないはずだった。にもかかわらず、中国奥地では黄色い椿が咲くとのニュースが世界に飛び交った。およそ天下の情勢に無縁のニュースのようだが、園芸愛好家にとっては驚愕の新情報だったのである。ツアーを企画して募集をかけたら、たちまち定員一杯になった。
香港から国境超え鉄道で広州へ入り、中国民航で途中南寧で給油して昆明に飛んだ。農業試験場で教授や技官がたにインタビューするのが眼目ではあるが、観光を抱合せにしたツアーだから、四時間半ほどバスに揺られて、山奥の少数民族の村でも一泊した。石林地区といって、黒い石が林立して水墨画そのままの景観を見せる山村だった。
貧しい農夫のなりをした初老の男が、半畳敷きほどの蓆を敷いて道端に座り込み、タガネと金槌とでコチコチと石を彫っていた。日がな一日、そうしているようだった。どうやら彼は石工または石彫職人で、膝の前には三個ほどの作品が並べるでもなく置かれてあり、今は四体めを彫っているようだった。
ツアー客のだれ一人として、そんな風体をした道端の男には眼もくれなかったが、私はふと立ち停まった。一体彫るのに、どれくらいの日数がかかるのか。身振り手振りで訊いてみた。およそ三か月とのことだった。
彼の膝の周りに転がされてあった三体を息を詰めるように眺めて、比較検討してから、一体を買うと申し出た。怪訝な顔をされた。信じられなかったのだろう。彼に釣銭や領収証の持合せがあるはずもない。我らが宿泊するホテルのフロントへと、引っぱってゆかれた。フロント係もまた、本当に買う気かというように、私の顔をいく度も窺ってきた。
ところで黄色い椿だが、日本から同行した植物学者と年季の入った園芸愛好家たちは口を揃えた。
「ありゃあ椿じゃねえや。お茶お茶、茶の木のちょいと変ったヤツさ。ったく、人騒がせったらありゃしねえ。白髪三千丈の国さね」
植物界・園芸界の画期的新発見を目撃することはできなかった。その地の黒石による、伝説上の空想動物である麒麟が、私の手もとに残った。
長野県中野市には庶民的な伝統玩具の土雛(つちびな)がある。文友としては私の姉さん格のお一人にして長野市ご在住の立岡和子さんが、あるとき一体の人形を贈ってくださった。段飾りにおいては、三人官女・五人囃子の下に、三歌人が控えるが、その一体の柿本人麻呂だとのことだった。
当時私は、民芸や柳宗悦を調べていた時代で、それ以前の学生時分には柿本人麻呂を調べていた。で、立岡姉さんは、おおいなる冷かし心から、贈ってくださったものだろう。私も大笑いして、ありがたく頂戴して今日にいたった。
画にも彫刻にも記述にも、人麻呂の体躯・容姿についての資料はまったくない。ある時「あららぎ」派の談笑中に、人麻呂はどんな人だったろうかとの、話題になったそうだ。歌の姿や調べや詠みぶりから、各人が想像をたくましうしたわけだ。伊藤左千夫は人麻呂を、堂々たる体躯の悠然たる人柄だったろうと想像した。島木赤彦は人麻呂を、きりりと引き締った鋭い感じの人だったろうと想像した。いずれ劣らぬ大歌人にして「あららぎ」の両雄たる二人が、対照的な人麻呂像を想い描いたわけである。
なんのことはない、左千夫は丸まるとしたデブで、赤彦はヤセッポチだったに過ぎないというのが、この逸話の落ちである。
三十歳代の私は、今よりもずいぶんデブだった。連日の酒と慢性的寝不足と不規則生活とのさなかにあった。おそらくは立岡姉さんも、左千夫と赤彦との逸話をご存じだったのだろう。
さてこれら三つの品物を、後年私は教材としておおいに利用した。学生諸君に、民芸とはなにか、洗練の美とはまた別の「用の美」とはなにかを端的に説明する道具としてである。
朝鮮の小壺と中野市の土雛は、民芸である。雲南省の麒麟は民芸ではない。私が石彫職人に支払った大枚のおおかたは、石林のホテルによって中抜きされて、職人本人にはいくばくも渡るまい。それでも彼と家族との半年分ほどの生活費には十分になることだろう。麒麟は普段使いの身近な工芸品なんぞではなくて、彼にとっては挑戦的な、思い切った大作なのである。
「民芸調」「民芸風」なんぞという言葉に惑わされてはならない。「鄙びた」「洗練された」なんぞという出来合いの基準にもたれてはならない。それぞれの美が、いかなる心に支えられてあるかを、しかと視なければならない。とまあ、偉そうに講釈したわけである。実際はそれぞれの機会に、ふと生じた気紛れから出逢った品物であり、先輩のご好意から出逢えた品物であるに過ぎない。
しかしともあれ、順序は忘れてしまったが、三品とも四十五年ほど私の手もとにあって、時おり私の眼によって眺められてきたものだ。もういいだろう。次の機会には、処分するつもりだ。