
昨日の続きだ。久方ぶりに鰻を食う。ありがたい到来ものだ。
即席の吸物まで付いている。マグカップでというのも味気ない。漆器と称べる木椀は今や拙宅には二客しかない。その一客を出して使う。
また暑さ負け対策に野菜を食わねばとの思い込みがある。三分の一個というような半端残りの玉ねぎにウインナも刻んで、中華鍋で熱がとおったらモヤシをひと掴み放り込んだ。酒と醤油とをたらしてから胡麻油を数滴。煙が立ち始めたら溶き粉でトロみをつけて出来あがりだ。およそ本式とは違っていようが、自分独りで食うぶんにはへっちゃらである。
鰻を口にするのはいつぶりだろうか、と考えて、怖ろしい思いつきに襲われた。きっと前回も、いつぶりかとの感慨に捉われたのではなかったか。とすれば私のことだ、日記に書き残したのではあるまいか。「うな丼」とのキーワードで過去日記を検索してみたら、果せるかなヒットした。昨年八月十五日の日記だった。わずか四日ちがいの、ちょうど一年前だ。やはり義叔母からご恵贈いただいたとのお礼の文言とともに、じつに久しぶりに鰻を堪能したと書いてある。すっかり忘れていた。
なんのことはない、同じおかたから贈られた同じお品を、じつに久しぶりなんぞと感じ入りつつ頂戴していたのである。恩知らずと申そうか、老化健忘症もここに極まれりと申そうか、我ながら呆れた。
ときにうな丼の観せかただが、上掲の写真では構図の都合から、丼の手前と向う(画面の上下)とを逆に置いてある。客人に供するのであれば、百八十度回転させて出さねばならない。箸の着け初めを客人の右手前に置いて出すのが普通だ。
兜や鰓に近きあたり、すなわちハラワタがあったあたりは身が柔らかく、ふっくらと焼けている。板前としてはまずここに箸を入れて欲しいはずだ。上掲写真で申せば、左上から右へと食べ進んで欲しい。上段が済んだら中段の左端から右へ向ってである。そして最後は下段の左から右へ、つまり鰻の下半身(?)から尻尾へかけてである。泳ぐにせよなんにせよ、尻尾近くの筋肉は圧倒的に運動量が多く、肉は薄く固いが味が濃い。ここを名残の味として欲しいのが板前の本音というものだ。
うな重が出てきたとする。蓋の蒔絵や箱の絵柄から、手前と向うが決っており、店屋さんであれば正しい方向で出てくる。蓋を取ると、カマに近いところが右手前にくるように鰻が敷いてある。右利きの客を想定して、さように敷いてある。そこから左に向けて箸を進めればよい。中段を右から左へ進めばよい。尻尾に近い細らんだ部分が向うの左端に敷いてあるのが、うな重のいただき了りである。
つい数日前にも、蕎麦や寿司について云わずもがなの野暮を申して、後刻後悔したが、またも同じことだ。これらは礼儀作法なんぞではない。マナーや世間常識なんぞでもない。むしろ逆だ。礼儀だマナーだなんぞと云うから、内実が抜けて鼻持ちならぬ頭でっかちの議論となり果てる。さような小うるさい噺ではない、美味いものを、より美味く食おうという、庶民のなにげない小さな工夫である。
とはいえ、もっとも美味い鰻の食いかたは、ひつまぶしと茶漬けだなんぞと、どうやら本気でおっしゃっているらしい日本人が多数部分となってきたご時世では、まったく余計なお世話ではあるけれども。
門外漢がなにを力説するかって? いいえ、文学の噺をしているのでございます。