
秋彼岸である。
お世話になった。頂戴ものをした。ご恩を受けた。加えて金剛院さまへは、彼岸の挨拶に伺わねばならない。ささやかな使いもの手配が、溜ってしまった。まず銀行 ATM にて資金調達。そして池袋へ出る。
菓子屋の店頭で、品選びのほかに包装紙の指定など、あれこれご面倒なお願いをする。馴染の店だから、笑顔で対応してくれる。背後でお待ちのご婦人に面目ない気がした。
「お待たせいたしまして、申しわけございません」
どういたしましてのご返事。私と同年配ほどのご婦人だ。私からのひと言で、心安さを感じられたものか、お訊ねがあった。
「お彼岸でも、仏事の包装をなさるのですか?」
「さあ、正しくはわきまえません。考えても判りませんので、お寺さんへのお供えはすべて仏事包装に決めてしまっております」
店員さんが包装の手を止めずに、
「そうなさるかたが多いようでございます」と口を添えてきた。
考えてみれば、ご婦人の疑問もごもっともだ。暑さ寒さも彼岸まで。おかげさまで無事に生き延びました。春であれば、田畑の手入れも早苗の用意もできました、秋であれば、おかげさまで収穫もまずまずですと、先祖への報告と感謝とを述べる日だろう。悲しい催しでも悔みの行事でもない。むしろ喜びを伴う祝賀の日だ。慎んだ色使いを遠慮して、仏事専用の包装を依頼するのは、いかがなものか。考え違いだろうか。
さもあろうが、私は少々別様に考える。春分・秋分とは昼と夜とが、すなわちあの世(彼岸)とこの世(此岸)とがもっとも接近する日のことだ。この日にこそ、向う岸へと話しかけるのである。ご本尊にも弘法さんにもご住職にも、その仲立ちをお頼み申しあげるわけだ。賑やかなはしゃぎ心は、やはり控えたほうがよろしい。
正統的な仏事作法はわきまえぬが、私一個は今後も、彼岸のお供えも仏事包装を続けてゆくことにする。
できれば一気に、金剛院さまへお伺いして、墓詣りまで済ませてしまえればと目論んでいた。が、地上へ出てみると、突如として空を叩き割るかのような雷鳴が轟いた。短時間豪雨の予兆だ。
様子を観ようか、というのは言いわけで、正直申せば出鼻をくじかれた気分だ。とりあえずタカセ珈琲サロンへと退避する。読みかけの本を鞄に入れてあるので、時間をやり過すには造作もない。朝食抜きで飛出してきたので、ここで本日のテキトー飯と考えて、パンを二個。ピロシキと名代の小倉あんパンとした。
ノートパソコンとスマホの二台使いにて、なにやら作業に耽る客が目立つのはつねのことだ。加えて土曜の昼下りだけの特徴だが、三人五人の学生グループやご婦人グループがなん組も歓談中だ。なにに興奮なさってるものやら、笑い声も大きい。なかには幼児を伴ったご家族連れもある。ここは遊園地かという喧噪状態である。イヤホンを耳に差してのパソコン作業のかたがたは、どうやら平気でいらっしゃるようだ。眺めていると不思議な気分に誘われる混在状態だ。
私が知る静かでのどかなタカセは、遠い過去のものとなった。べつだん不愉快ではない。それどころか興味深い。ただし私のほうが、異分子として周囲に違和感を振り撒いてしまっているのではないかと、むしろ面目ない気にすらなる。
夏休み期間中の公立図書館は、受験生にとっては必死の戦場で、ただ読書するだけの暇な老人なんぞは場所ふさぎの迷惑異分子だと聞かされたことがあった。古くから生残るのどかな喫茶店も、退役老人の居場所ではなくなっている。

タカセを出ると、案のじょう雨は小止みとなっているものの、街路は一面に濡れていて、アスファルトの歪みによる窪地には水溜りができている。短時間ながら本格的降雨だったと見える。
濡れては困る手荷物を提げていることだし、まだ陽暮れ前ではあるが帰路につく。今なら電車も空いているにちがいない。
なまじ陽のあるうちに帰宅したために、とんでもないものを発見してしまった。彼岸花の第一陣である。陽当りや風通しの加減か、それとも球根群が巨きいのか、毎年先陣を切って出てくる通称第一群だ。
シマッタ! そのあたりの草むしりは、まだ済んでいない。これからしばらくの期間は、彼岸花の成長と草むしりの進捗との兼合いについて、思案してゆかねばならない。