一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

津軽

 津軽三味線奏者の只野徳子さんを、カッコイイ女性だと思っている。

 名人とも、津軽三味線を全国的に有名にした人とも云われた、先代の高橋竹山のライブを、一度だけ聴きにいったことがある。年月はさっぱり記憶にないが、四十年も前だったろうか。邦楽について知るところは皆無だったが、こういうものも、今聴いておかねば再び機会は訪れぬかもしれぬと考え、出かけたように思う。
 プログラムは二部構成で、第一部が竹山ソロ。休憩後、「弟子の竹与と弾きます」となって、ほっそりした躰つきの女弟子さんとのデュオだった。竹与さんとは、当代(二代目)の高橋竹山さんである。
 眼の不自由な名人は、補って余りある巧みな話術の持ち主。曲間の喋りでは、こてこての津軽訛りで客をなごませ、会場に均一な空気を創り出した。そして幾度も「竹与がぁ、竹与がぁ」と。このお弟子さんのことが、可愛くてしかたないんだなあという気配を、隠そうともしなかった。

 門外漢が知らなかっただけで、東北地方には他にも名人があって、それぞれの微妙な芸風の違いから、津軽三味線は「弾く」ものか「叩く」ものかという論争めいたものまであると、あとで知った。これは名人たちのあいだでの見解の相違ではなく、ましてや対立などではなく、インタビューの中で飛出した言葉の相違に、周囲がことさら焦点を当て過ぎたところに生じた問題らしい。
 当事者たちが、そんな粗っぽい対照のなかで生きているはずはない。いつの時代も、どんな分野でも、実際の手触り・手応えから出発していない議論が巻起す、迷惑な空騒ぎだ。
 しかし若く、血気盛んだった私には、刺激的な啓示だった。津軽三味線は弾くものか、叩くものか。それは私にはしょせん解らぬこととして、では文章をもって描くとは「写す」ことか「語る」ことか。その後、長く考え続けることになった。結論はともかく、考え続けることが大切な栄養になったと、自分では感じている。

 今日では、津軽三味線の聴かせかた、魅力の伝えかたも、ずいぶん洗練され、多彩になった。大人気の吉田兄弟のチケットなど、おそらく私などには取れないのだろう。動画を観るかぎりでも、津軽三味線の伝統技術を高い水準で押出しながら、多様な音楽とのコラボもあって、若い聴き手や外国人聴衆を惹きつけているのも当然だ。

 しかしである。その夜の気分にもよるが、過去の名人や、若き吉田兄弟よりも、ジョージ&ノリコの動画を優先して観ることが多い。オーストラリアはメルボルンでおもに活動する、ストリート・ミュージシャンである。オーディション番組で審査員・観客を総立ちにさせて、一気に有名になったらしい。音楽分野としてはブルースロックだが、徳子さんの姿を観るのが好きだ。

 小学校から短大まで、バスケ好きの活発な少女だった。英語も好きで、海外とやり取りする会社に勤めた。世界の時差のなかで、不規則勤務のストレス。婦人の病気を抱え、結婚してからは、不妊治療を受けることにもなり、ご亭主の祖国オーストラリアへ移住した。精神的な危機を力強く支えてくれたのは、ご亭主の母、つまりオーストラリア人のお姑さんだったという。そんな中で、ブルース・ミュージシャンのジョージさんと出会う。

 ジョージ上川さんは、会社員生活がどうにも耐えられずに、郷里の和歌山を飛出して単身オーストラリアへ。オーストラリア人の奥さんに手伝ってもらいながら、文字通り自力で這いあがってきたストリート・パフォーマーだ。現場で培った人だけに、ハートは熱く、見せかた聴かせかたも、客の扱いも巧い。
 徳子さんはジョージさんから、ブルースのハートを、徹底的に吸収したらしい。そして前例のない、フュージョン・コンビが出現した。
 誰にでも解りやすいノリの好さ。民族楽器の音色を特色として打出した異文化融合性。いかにもオーストラリア人好みだが、他国でも通用しそうだ。

 文化現象は、めったに嘘をつかない。ただそれを人間が視逃したり視過ごしたり、見当違いの解釈をしたりするから、あらぬ方角に仇花を咲かせたり、無駄な寄道をするに過ぎない。
 ということは他分野にも、つまり文学などにも、ジョージ&ノリコはすでに出て来ているのだろうか。残念ながら、私の嗅覚は齢老いた。さて、ルイ・アームストロングでも聴くとしようか。