
今日も用足しに外出したい気はあった。が、出そびれた。代りに、なん日か遅れで大阪国際女子マラソンのスタートからゴールまでを、ユーチューブで観た。
中継本部での解説陣は、高橋尚子、渋井陽子、福士加代子。移動中継車が野口みずき。バイク移動が千葉真子。それらの外枠にあっての全体統括が有森裕子。歴代のオリンピックや国際大会でのメダリストたち、またはかつての日本記録保持者たちだ。まさしく女子マラソン界のレジェンドたち総出演である。
観ごたえのあるレースだった。が、そのもようと結果とについては、ここでは措く。私にとっては、薄れかけた記憶をありありと蘇らせてくれる、印象的な場面が動画内にあった。
外国からの招待選手に対抗する国内最有力選手として、パリ・オリンピックで堂々の入賞選手が、オリンピック後の初レースとして注目され、期待されていた。実業団の「第一生命グループ」チーム所属の選手だ。駅伝の名門チームでもある。特任コーチとして、山下佐知子さんを擁している。
山下コーチは、レースの需要地点に次つぎ先回りしては、沿道から大声で選手を励まし、短く指示を伝える。「今の状況をどう視ていらっしゃいますか?」と放送インタビュアーから向けられたマイクにも、冷静に対応している。

あぁ、山下さんだと、私は思う。「第一生命グループ」チームを率いておられるとは、むろん承知しているが、姿を眼にする機会はほとんどない。マイクを向けた若い女性インタビュアーはもちろん、走っている選手たちも、沿道の観衆のほとんども、動画の視聴者たちの多くも、彼女がどういうランナーだったかを知る人は、もはやあまりあるまい。
一九九二年のバルセロナ・オリンピック女子マラソンは、山下佐知子と有森裕子とで闘った。八月炎天下に実施された、無残なほど苛酷なレースだった。二人は互いに好敵手だったが、日の丸を背負う責任をも重く感じ合う戦友でもあった。
両選手とも先頭集団で粘っていたが、山下が遅れ始めた。それでも残酷なサバイバル戦に驚異的な粘りを見せ、惜しくもメダルには届かなかったものの堂々の四位入賞でゴールした。すでにゴールしたメダリストたちの情報は、彼女の耳には届かなかった。控室へ向うスタンド下のトンネルを、疲労し尽した表情と足取りとで、山下は独りトボトボと歩いた。その姿をテレビカメラが追っていた。
「山下さん、お疲れさま」カメラの背後から日本語の声がかかり、彼女は眼を上げた。取材記者か報道陣か、顔見知りの間柄だったらしい。
「あっ、有森さんは?」
「銀です、銀」
「銀。あーよかったぁ」
髪をボーイッシュに刈上げた、まことに小柄な、一見少年にしか見えない山下佐知子の疲労困憊の顔に、喜びとも安堵ともつかぬ、なんとも形容しようのない笑みが浮んだ。画面を観ていた私はその一瞬に、山下と有森とが両肩に背負っていたものの途方もない重さを見せつけられた思いがした。
なんとしてでも、自分があのポールに日の丸を。もし私が倒れるようなことがあれば、せめて有森さんが……。有森裕子もまた、せめて山下さんがと、思っていたのではなかったろうか。
数年後に山下は競技生活から引退した。有森は病気を抱え、身辺の不運も重なって、苦悩に沈むスランプが続いた。二度とレース出場はありえまいと、おおかたの眼には見えた。しかしこのままでは終れないと、不死鳥のごとき復活をとげ、四年後のアトランタ・オリンピックにすべり込みで間に合った。驚きの銅メダルだった。
「今度ばかりは、自分を誉めてあげたい」という、ゴール直後のインタビューでの開口一番の応えが、そこだけ切取られて流布され、流行語のようになった。しかし切取られた部分の直前では、こう云っていたのだ。
「スタートラインに立っただけでも、レースに勝ったほどの価値があるんだからねと、山下さんも云ってくれたしぃー、たくさんの人が……、今度ばかりは、自分を……」前後になんの脈絡もなく、突如としてここに山下の名が、有森の口を衝いて出たのだった。二人のあいだでは、いやお二人のあいだでだけ、バルセロナは続いていたのだなと、私には伝わった。
やがて三十年が経とうとする。山下佐知子は引退直後から後進の指導ひと筋で、つねに現場に身を置いて、世界と闘えるランナーを育成しようとしている。有森裕子は母校日本体育大学の客員教授となり、日本陸連のお偉いさんとなった。