一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

一滴の味



 「二番茶だからね。おいしいよ」
 急須に二杯目の湯を差すとき、お師匠さんはかならず云い添えた。
 一杯めは急須が十分には温まっていない。茶葉も十分に開いてはいない。適度の間をおいてから淹れたとしても、茶の味がどこか直線的で、ナマだ。はいお茶でございます、という味だ。二杯目の湯を差すころには急須が馴染み、茶葉も蒸されて存分に開く。お好みはいろいろだが、飲んで味が好いのは二番茶だ、というのがお師匠さんの揺るぎない説だった。

 ご近所に和裁のお師匠さんが、独りで暮していた。昭和時代のことだ。大声で陽気に喋り、豪快に笑うひとだった。終戦直後は池袋駅西口のゴチャゴチャした一画で、一杯飲み屋を経営していたらしい。文字どおり女の細腕一本である。やがて駅周辺を綺麗にするといった時代が来て、追い立てられたそうだ。
 その後どういう時代を経たものか、芸が身を助けるといった按配で、部屋借りの住いが小規模な和裁教室となった。みずからの出自について、生立ちについて、経歴について、めったに語らぬ人だった。酒も呑んだが、昼日なかはお茶にこだわりが強かった。

 母も弟子の一人だった。晩年の母が熱中したのは編み物だったが、和裁はそれより前のことだ。戦前の女学校被服科の教育はたいしたもので、ひと通りのことを母は承知していたが、同好の婦人たちとピ-チクパ―チクお喋りしながら針を動かすのが楽しいらしく、足繁くかよった。また女学校レベルを超えた本格の和裁技術に、興味を惹かれることも多かったようだ。娘ほどの齢の教室仲間と、飽きることなく交際した。
 「さて、だいぶ根を詰めたね。肩凝ったね。お茶にしようか」
 お師匠さんのひと言で休憩に入る。二番茶の説が披露されるのは、そんなときだ。

 茶に関するお師匠さんの説にはもうひとつ、最後の一滴説があった。湯呑に茶を注ぐさいには、急須に湯を残してはいけない。最後の一滴まで絞り出すかのように注がねばならない、というものだ。こちらは急須の底に残った茶にタンニンが溶け出しては躰に毒だという、いちおうの科学的根拠もありそうだ。が、お師匠さんはそうは云わなかった。
 「もう出ないと思っても、急須を傾けて待つと、最後の一滴がゆっくり玉になってきて、やがてポタリと落ちる。この一滴が、湯呑全体のお茶をおいしくするのよ」
 本当だろうか。

    
 旧い仲間の音楽家から、銘茶の中元が届いた。数年前に大病を得られて、半身に不自由が残る身でありながら、左手一本でピアノを弾いて、レッスンを続けている。東京の教室はむろんのこと、名古屋や九州の教室へも、定期的に出かけている。
 私はなかば承知で、無沙汰を続けてきた。闘病しつつの晩年には、彼をこよなく尊敬し、周囲にあってなにくれとなく気を遣ってくださる人たちに取巻かれて過すのがいい。間違っても互いの黒歴史を暴き合いながら、下品な笑いに興じる旧友悪友なんぞが詰めかける筋合いではなかろう。

 以前別のかたから、同じ商品をいただいたことがあった。そのときにはティーバッグ方式で淹れて、ご馳走になった。ふと思い立って、今回は煎茶用の急須を使ってみようかという気が起きた。
 食器戸棚の奥の収納を探ると、出てくるは出てくるは、朱泥造りの煎茶用急須が、六つも七つも出てきた。母がため込んだものだ。気に入って買って使ってみたら、なにかしらシックリ来ない点があって、また買ってしまったのだろう。
 その評価の手きびしさと微妙さについては、私なんぞに解るはずもない。だがともするととの疑いが、ないではない。母はお師匠さんの「最後の一滴」説に共感していて、傾けた急須の注ぎ口の先端で、ゆっくりと玉になってやがて落ちる一滴が、本当に湯呑全体の茶を美味しくすると、信じていたのではなかったか。
 はて、現存する急須たちのどの注ぎ口が、母の気に入りだったのだろうか。