一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

祭礼第二日


 晴れた。二日とも晴れた。正確には、初日の深夜に降った。露払いとなって、以後の雨をすべて持去ってくれたのだろう。二日とも、暑からず寒からず。佳き年だ。

 じたばたせずに、おとなしく在宅の一日とする。下手に騒いで、空模様を危うくしては、元も子もない。

 神輿は出た。せめてこれだけはといった出かただ。
 呼びものでありフィナーレでもある、各町内の神輿が集結して、競いながら行列しての宮入りはない。そも巡行そのものが禁止されているのだろう。
 飾り神輿展示場の前の往来をほんの一区画、あちらの十字路からこちらの十字路まで、いく度も往復する。交通を一時制限して道路横断するについての、警察との話合いがついてないのだろう。つまり原則的に神輿巡行は禁止なのに、道路横断しないとの条件つきで、一区画だけ目こぼしに与ったのだろう。
 事情はまったく耳にしていないが、関係諸氏による事前交渉のお骨折りあって、せめてこれだけでもと実現されたにちがいない。住民から視れば、これだけでも大手柄だ。

 男衆で立上げる。先棒を抑える先達たちに、わずかに私でも顔馴染の年寄りが混じっている。年に一度、若返る面々だ。ホイッスルや拍子木でリズムを刻む連中にも、気合いが入る。沿道からの手拍子が合される。

いゝんだ、いゝんだ。今は届かなくったって。

 次つぎ肩替りして、女衆も入る。若者も初心者も入る。女性の担ぎ手の割合いが増えたのも、近年の特色だ。
 限られた区画の往復巡行だ。予想外の事態が発生する危険も少ないと看做されたのだろう。子ども神輿で味を占めた次世代も、入ろうとする。どこかでご覧の親御さんがたは、ハラハラしながらも眼を細めておられることだろう。あるいはすぐ近くにママもいるのだろうか。
 今はまだ棒に届かなくったって、そんなことどうでもよろしい。神輿には神さまが乗っている。その下に潜りこんで、騒いでみたことが大事だ。担げるようになんて、すぐになるから。

 夜九時まで、神社の境内は開いている。露店が一軒もない年だからこそ、落着いてゆっくりお詣りできる。さよう考えるご家族づれなどが、静かに行列している。

 今年の祭も了った。

祭礼第一日


 深夜にパラリと来たときには、あゝ今年もかという想いに誘われた。なにせ「雨祭」である。ひと眠りして起きてみると、これが快晴。暑くもなく寒くもなく。これほどの祭日和は、はてなん年ぶりだろうか。

 クリーニング屋へ夏物ジャケット二着を依頼。今年はもう再登板の機会なしと踏んだ。ついでにカッターシャツ二枚。こんな普段着をと気が差したが、日々粗末ななりの私としては、ましな部類に属する衣類。
 「世間水準では普段着でも俺には晴れ着」と申し添えて、女店員さんの愛想笑いを誘っておいた。

 靴に履き替え、荷物を持って、まず野尻組へ一升。720 ミリリットルなどという、使い勝手一本槍の瓶が時流だが、差入れには景気悪くていけない。かといって、奉納品でもあるのだから、紙パックというわけにもゆくまい。
 すでに寄合って気炎を揚げているなかに、顔馴染の若い衆もいた。
 「町内のもんです。ご苦労さまでーす」
 「おゝ先生どうも。これ、お持ちになってください」
 助っ人に出張ってくれた衆へのお土産だろうか、事務所の隅に山積みとなっていた手提げ紙袋からひとつくださった。資生堂パーラーの缶入りサブレ二十二枚入りだった。再利用できる手頃な缶のやつだ。助かる。

 その足で駅・神社方向へと散歩に出る。疫病前の祭であれば、私なんぞこゝらを歩けない。濁流に浮き流される軽トラックよろしく、プカプカウラウラとたゞ押し流されるまゝになってしまう。今は人影もない。
 左手に老舗の質屋さんの看板が見える。お若い新住民のほとんどがご存じないが、昔この地で帝銀事件が起きた。報道資料として必ずと申してよろしいほど紹介される、有名な現場写真が伝わっているが、今の私と同じ構図で撮ったものだ。質屋さんの白ペンキ塗り木製看板が、まるで目印かのように写っている。今は黄色の蛍光灯看板。その正面、今は煉瓦塀をめぐらせた集合住宅に統合されている一区画が、帝銀○○支店の跡地である。
 初めて訪れる街を歩いて、質屋と銭湯とを視かけるようなら、そこは古くからの住民がまだ根を張っている街である。憎まれ口で申せば、代替り地主や不在地主と結託した開発業者から、まだ喰いものにされ尽していない街である。ありがたいことに私は三軒の銭湯にかよい分けている。残念ながら、質屋がよいの経験はない。

 


 境内も閑かなものだ。露店が軒を連ねる祭礼であれば、外の街路以上に私なんぞ、躰を斜めにしたって歩けやしない。今はお独りでのご参詣、幼児の手を曳いて親子でのご参詣など、ちらりほらり。祭礼日につきお詣りか、それともたんに週末だから散歩を兼ねてのお詣りだろうか。
 拝殿前に長く長くお詣りなさる中年のご婦人が一人。お悩みかご心配があって、本気で神さまにおすがりしておられるのだろう。私なんぞ薄っぺらな、趣味的お詣りだ。

奉納。

 お神楽が始まる。祢宜姿の男性と巫女姿の女性との二人が、動画とスチールの撮影班として、開始前から境内にスタンバイしている。ほかに観客はデジカメをポケットにした私ひとりだ。
 太鼓と篠笛と締め太鼓の三人編成。お祖父ちゃんとお父さんと坊やといった年恰好に見える。実際さようなのかもしれない。訊かなかった。
 十五分を超える、素人眼にも力演と見える奉納だった。たまたまご参詣か、音曲に釣られて立寄られたか、奉納終了時には二十人近くの聴衆があった。奉納中にも、先を急ぐご事情おありか、立停まらぬ人もあったようだが、私は初めから仕舞いまで聴けて、ほんとうに好かった。
 このあと舞いの奉納もあるとのこと。拝見したかったが、私にも先を急ぐ想いがあり、境内をあとにする。明日もう一度、チャンスはある。


 噺戻って今朝のこと、山車の大太鼓の乱れ打ちが聞えてきた。鳴りを確かめているなどという程度ではなく、少年たちに好きなように叩かせている感じだった。作法通りのリズムであれば、多少の乱調もご愛敬だが、かくも滅茶苦茶となるとやかましい。窓ガラスもビリビリと震える。
 山車の大太鼓の音は、綱曳くもの全員の声を束ねた音であり、ひいては町内住民全員の声を束ねた音だ。一人ひとりがてんでんばらばら氏神さまに呼びかけたところで、騒がしいだけで神さまだって聴きとれまい。住民の声と心を束ねる必要がある。サンバ・カーニヴァルとは、わけが違う。派手に手数が多ければよろしいというものではないのだ。
 役員とか顧問といったかたがたには、ご年配者も多かろうに。少年たちに、懇切丁寧に教えてやってくださらんか。太鼓だけに、バチが当るぞと。

お祭


 地元神社の祭礼である。毎年九月の第二週末と決っている。

 立春から数えて二百二十日近辺に、どうしてもなる。雨風に祟られる年が多い。「雨祭」の異名まである。今年も例外とはならず、昨深夜から小雨となった。二日間の祭礼のうち一日めが晴天だと、明日は予報になくとも夕立でも来るのではないかと、住民は囁き交す。なん年かに一度しか実現しないが、晴天が二日続こうものなら、
 「今年は晴れたねえ」
 「あゝ晴れた。なんか起らなきゃ好いが……」
 路ですれ違う年寄りたちは、さように挨拶する。私もその一人だ。

 だが昨年も一昨年も、さような挨拶は交されなかった。晴れたからではない。神社境内はおろか駅周辺の街路をところ狭しと埋め尽すテント露店がいっさい禁止されたし、神輿の巡行も制限されたからだ。大勢の人が集ってくる要因が、ことごとく排除されたのである。そうなれば降ろうが晴れようが、たいした問題ではない。
 今年も露天商はいっさい出店されない。境内や駅周辺の商店街が、ラッシュアワーそこのけの人出でごった返す可能性もありえない。
 この数年間に、わが町へと移ってこられたかたも多かろう。新築マンションも増えたし、学生や独身者向きの安アパートも依然として少なくない。立教大学日本語学校学生寮などもある。わが町の祭礼を観たことがないとおっしゃる新住民も、だいぶいらっしゃることだろう。この町を知っていたゞく好い機会なのに、惜しい。
 

 「今年もお祭りは中止だそうですね」
 残念そうにおっしゃる若者もおいでだが、それは正確ではない。埋め尽す露天商や人出であたりがごった返すことこそなかろうが、神社にて祭礼は執りおこなわれる。一日めには前夜祭が、二日目の午前十一時からは奉納神事が、恒例どおりに執りおこなわれる。神楽も奉納される。
 昼間はもちろんのこと夜九時まで、一般参詣者はお詣りできる。けっして多いとは申せぬ照明設備やかゞり火のなかで、しめやかに宵宮詣りも悪くない。露天商の灯でまばゆいばかりの境内とは、また異なったおもむきというものである。

 祭礼の次第は回覧板でも回ったが、神社の大鳥居脇の掲示板にも出た。隣には「生態系保護のため野生動物にエサを与えるな」との貼紙が出ていて、思わず吹きだした。あながち地域猫や鳥たちのみを指しているわけではないかもしれぬ。人間に露店での買い食いなどさせぬと、釘を刺しているようにも読めてしまう。

 大太鼓を積んだ山車と、子ども神輿は出るそうだ。この町をふる里と将来想い返せるような、思い出を子どもたちに授けたいとする、せつない親心かもしれない。大人神輿は飾り神輿となる。人目に着く公開安置所に飾り置かれて、通行人から眺めてもらおうというわけだ。
 拙宅北隣の児童公園が、わが町内の神輿安置所となる。往来に面した場所に、ヨシズを張り回した神輿小屋が建った。休憩所・寄合所の役目をするテントが、その奥に張られた。昨日午後から夕方にかけて、町会の顔役がたと野尻組の若い衆とが総出で作業を了えた。山車や子ども神輿も、きれいに掃除され、太鼓の試し打ちもされた。
 で、今朝早く、神輿が公園隅の倉庫から引出された。

 今から二日間、野尻組の若い衆たちが寝ずの神輿番を務める。日ごろから、なにくれとなく近所を看てくれているトビ職の一家である。カシラへ一升、届けねばならない。威勢の好い若い衆たちにとっては、ほんのひと口づつでしかないけれども。

久慈


 お若い友人の水奥さんから、珍しい食卓のものを頂戴した。

 水奥さんは高校の国語科の教諭だ。学生時分の環境には、将来作家となって文界の第一線に出ようとか、編集者なりディレクターなりとなって集団創作の現場に身を置いて活躍しようなどと考える学友が、うじゃうじゃいた。しかし彼にはさような野心はなかった。少なくとも外見には表さなかった。地道な勉強を重ねて、教職への道を歩んだ。
 サークル活動においても、学友間における信頼感には抜群のものがあって、会長(主将)を務めた。

 下級生からも慕われる存在だったのだろう。その一人だった女子を、夫人とされた。彼女もまた、上級生になったころには、下級生の男子どもの眼がトロンとなるような女性だった。
 新婚生活でのご夫婦会話はどんなもんかと、あるときお訊ねしたら、互いが読んだ本や観た映画の感想を述べあい、情報共有するとのお応え。いつまでクラブ活動夫婦を続けるつもりかと、あまりの清潔さに呆れたことがある。
 その後、愛嬢に恵まれたが、ある程度は予想し覚悟していたものの、これがまた想像を絶する子煩悩。仕事を了えれば、表玄関へ廻る間ももどかしく、垣根を踏み破って帰ってくるという按配だろう。実際は気持だけで、教育現場での労働環境には厳しいものがあるとは、耳にしているけれども。

 老人の独居暮しにはさぞや寂寥感たゞようものがあろうとのお心遣いから、ご一家ご息災の書状に添えてお見舞いくださったのは、夫人のご郷里岩手の美味である。帆立・ウニ・アワビほか、三陸の名産をふんだんに盛込んだ、豪華なチルド料理とのこと。むろん私は、生れて初めて眼にする。
 仙台へとさかんに出張していた時分、駅西側の商店街に朝市が立ったものだが、「三陸の若布どう? 若布若布ぇ」露店の親爺さんお兄ちゃんがたの声が、ピリッと冷えた空気のなかを盛んに飛び交っていた。そのあたりは後年の駅前再開発で、まったく様変りしてしまったことだろう。今行ったところで、迷子爺となるのがオチだ。

 同封パンフレットを眺めると、久慈市のお店の商品とのこと。思い出したくもない、しかし忘れてもならぬ 3/11 のさい、各所からの悲惨な津波映像が中継されるなかに、久慈市海岸からの映像も繰返し流れた。漁業はもちろん水酸加工業も、壊滅的打撃をこうむったことだろう。跡片づけ、街の復旧、産業再興の苦闘を、このメイカーさんも商店さんも、闘ってこられたのだろうか。
 手に取って、しげしげと眺める。なにやらズシリと重たい缶詰である。 

商品パンフレットより。

 久慈という、高潔にして由緒ありげな地名の語源には、いくつかの説があるそうだ。私が聴いていたのは、古代の『風土記』を根拠とする説で、海岸近くの小島が鯨の形をしていることから、久慈は鯨のクジだという説だ。パンフレットに印刷されてあるのは、鯨を左前方から眺めた写真で、この構図が効果的と見えて、同工異曲の写真をなん枚も眼にしてきた。
 ほかの説として、アイヌ語でゆるやかに湾曲した浜辺を指すとのこと。初めて知った。久慈という地名も、それに近い発音・表記をもった地も、全国にあんがい多い。しっかりしたご研究がどこかにあるならば、一読に及びたいところだ。

久慈あさみ(1922 - 96)

 唐突だが、私にとって久慈と申そうならば、久慈あさみさんである。東宝の喜劇映画社長シリーズで、主人公森繁久彌さんの奥方を演じられた女優さんだ。
 仕事は有能だが好色無類の社長さんが、ヒイキにして通い詰める芸者(ときにはバーのママ)が新珠三千代さん。出張先で出逢うママさんとなると、草笛光子さんだったり淡路恵子さんだったりする。
 本妻久慈さんは、ほど好くヤキモチを焼いた振りをする。この夫は途方もない女好きではあるが、身をもち崩したり家庭に波風立てたりはけっしてしない。それどころか、この亭主から好色を盗ってしまったら、仕事の活力も萎えてしまいかねないと承知している。手綱の要所を握って、時どきヤキモチも焼いてあげて、あとは泳がしておくにかぎると見切っている、賢い社長夫人だ。
 私は司葉子さんや、団令子さんや、星由里子さんを観たくて東宝映画を観た子どもだったけれども、そして後年は酒井和歌子さん一辺倒となるのだけれども、それらはいずれも長い噺となるので今は措く。久慈あさみさんの姿には、素敵なお母さん、魅力的なオバサマとして憧れたものだった。

 宝塚歌劇の男役トップスターだった久慈さんと、同期で娘役トップだった淡島千景さんとのコンビで、一時代を画したそうだが、私はむろん世代的に間に合っていない。
 戦時下のタカラジェンヌたちの進路選択は厳しく、戦地慰問に明け暮れして、ご苦労なさった女優さんがたである。
 戦後、相方の淡島さんが映画へと転身したのに刺激されて、みずからも映画界へ。お若いころの映画出演作品のおゝかたにも、私は間に合っていない。あの社長夫人は、どういう女優さんなのだろうとの興味から、のちに遡って捜してみたにすぎない。
 文芸原作ものや巨匠名作ものの多い淡島千景さんとは役どころが異なるため、久慈あさみさんを捜すのには、けっこう骨が折れる。が、捜し甲斐はある。同じ道を行く同好の士にとんと出逢わない。単独行の歓びがある。

ありがたい


 ブロック塀一枚を隔てて、往来に面している部分である。側面に木戸口があり、覗く気になれればどなたにも覗ける場所だ。そんな所も、日ごろは手入れを怠ったまゝにしてある。

 サクラの老樹が、道路がわに身を乗出している。花時には、歩を停めて観上げてくださるかたもある。写真を撮ってゆかれるかたもある。その代り晩秋から初冬ににかけて、魂消るほど大量の落葉が降る。風に吹かれて落葉はサワサワと移動する。向う三軒両隣どころか、その先のお宅のご門前まで汚す。恐縮してお詫び申しあげると、なぁに、愉しませていたゞいているのですからと、どなたもが笑顔でご寛恕くださる。ご内心は計りがたいと思いつゝも、お言葉に甘えてきた。ありがたい。

 年に一度、植木職の親方に入っていたゞき、徒長枝を詰めていたゞいている。古来「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」と云われ、サクラの剪定は素人の手には負えない。
 ウメは節なり枝先なりから、いく本もの徒長枝がツンツンと天を突いて出てくるので、放っておくと樹形が滅茶苦茶になってしまう。一本を残して、または一本も残さずに、詰めてしまわねばならない。
 そこへゆくとサクラは、素人が面白半分に伐ってしまうと、伐り口から腐蝕がきて樹を傷めたり、下手をすると命にかゝわることすらあるそうだ。

 京都御所の桜林の枝はどれも、地を這うように延々と横に伸びていた。放っておけば自重で地に着いてしまうところを、丸太を丁字形に組んだ支柱でもって、ひと枝ひと枝を支えていた。こうまでして伐らぬものかと、感じ入ったものだった。

 親方に入っていたゞきやすいように、ひこばえや下草の始末くらいは私が済ませておくべきなのに、たいていの年は、なにもせぬまゝ丸投げでお願いしてしまう。素人仕事の草むしりまで、親方のお手を煩わせてしまうわけだ。恐縮してお詫び申しあげると、なぁに、それも仕事なんで、どうか私の仕事を奪わんでくださいと、満面の笑みを返してくださる。ありがたい。
 無事に花が了った初夏のころ、親方に入っていたゞいたまゝだったから、丸四か月以上放置してあったことになる。老木の根方からも、半分ウロになりかけた昔の伐り口からも、たくましくひこばえが伸び出てきている。それを足がかりにしてヤブガラシをはじめとする蔓植物たちが、覇を競う様相を見せている。ことごとく処理だ。
 塀を越すに頃合いの高さから出たひこばえは、往来に枝を張り出している。上空から往来へ張り出す枝は鑑賞の対象となりうるが、手の届くひこばえは、迷惑のもとかイタズラの標的にしかならない。すべて処理だ。

 サクラの西隣にはカリンの樹が一本立っている。なんでも試してみたがる気性だった母が、梅酒だけでは飽き足らず、あれこれと果実酒に凝った時期があって、家じゅうあちこちに広口瓶がごろごろしていた。ある年カリンを漬けた残りの種子を、興味本位から埋めてみたら芽を吹いたものだ。初めはカリンとは気づかず、またカリンの種子をこゝに埋めたことすら憶えていなかったかもしれぬ母が、これがカリンの幼木と知ったときの悦びようは、尋常ではなかった。さて私はそのとき、小学生だったろうか、中学に上っていたか。いずれにせよ、五十年をゆうに超す昔のことである。ありがたい。

 年により豊作不作の差はあるものゝ、今でも毎年実を着ける。完熟して落果するとすぐさま虫が入ったり、蟻の餌食となったりするので、完熟まえに竹竿かなにか武器を携えて、密かに実を落しに来られるかたが、ある時期まではあった。そんなことなさらずとも、ひと声掛けてくだされば、優先的に差上げたのに。
 だがこの十年来、そうしたかたをお見受けしない。お若いかたのなかには、なんの実だか、どう活用できるのかご存じなく、興味すらお持ちでないかたも、多いのではないだろうか。高級スーパーやフルーツショップに並ぶ、外国産の高価フルーツや国内産ブランド・フルーツについては、きっとたくさんのことをご存じなのにちがいない。

 さらに西隣の塀に近い窮屈な場所には、マンリョウがひと株立っている。来歴については与り知らない。鳥の消化器官を経由して、いずこかから運ばれてきて、この場所に着地し、芽を吹いたものだろう。おそらくヒヨドリの仕業だ。
 頑固な根を張る種類でもないから、除去することもできなくはないが、完熟すると実が真赤になって、正月飾りにもされる縁起物だから、放置してある。世話も焼かない代りに、自力で育つぶんには邪魔しないつもりだ。
 今日段階ではまだ実が濃い緑色で、鳥たちの眼を惹く色でも姿でもない。空気が冷えてきて、実が熟するころにでもなれば、鳥たちが放ってはおかないだろう。なにやらありがたい気がする。

 サクラもカリンもマンリョウも、じつは先の知れた命だ。この場所は、防災耐震都市改造計画だとかで、道路拡幅用地に指定されている。やがては東京都から召上げられる土地である。

 作業を了えて、木戸口へと廻る。覗く気になればどなたでもが覗ける場所に立って、本日のビフォー・アフター。これなら人が住んでいる場所と、思っていたゞけようか。
 どうせ為政者に召上げられるのであれば、ぎりぎり直前までちゃーんと人が住んでいた土地として、明渡したいものと念じているのである。
 ちょいと長引いた。本日は八十分作業。

現金なもん


 拙宅の葉叢などから翔立つはずもなさそうなヤツが、ふいに翔んで出た。

 秋の草むしりも佳境に差しかゝろうとしている。この先まだ、刈草の山はいくつも出現することだろう。狭い敷地内が堆肥製造地のようになってしまう。土に還すといっても、独り作業には限界がある。

 やむなく、ひと山をゴミ回収に出した。台所ゴミと紙屑類とタバコ吸殻といっても、一人家族につき、たいした量ではない。しかも切り刻めるものは細かくし、長いものは結ぶことを習慣としているから、ゴミの密度は維持されている。よほどの台風ででもないかぎり、私のゴミが風に転がることはありえない。
 そこへ枯草をひと山ぶん詰めこんだ。家庭ゴミ3 枯草7 ほどの割合だろうか。ドクダミやシダ類やヤブガラシほか蔓草類の死骸も、一部は地に還るが一部は燃やされて天に還るわけだ。

 佳境に入った草むしりについては別述するとして、作業後には泥まみれの軍手を洗う。洗うといっても丁寧には程遠い。洗面所のタブに水を張り、五分間ほど浸けておく。手洗い用の石鹸をなすり付けて、汚れのひどい箇所同士をごしごしと擦り合せる。濯いで流す。それだけだ。もとどおりの白さに戻そうなどという気はない。
 もはや永久に出番がないかもしれぬエアコン室外機の上に干す。ついさっきまでは、曇り空のくせしてクソ蒸暑いじゃねえかと、独りごとで悪態ついていたにもかゝわらず、もっと照ってくれゝばなあと、陽射しに期待しているのだから、現金なもんだ。

 ところで、石鹸や洗濯洗剤が進物の花形だった時代があった。えっ、そんなもんがどうして? お若いかたは、首を傾げるかもしれない。薬用洗顔だバラの香りだ、肌艶を護るだ香水成分が持続するだと、大手メイカーが躍起になって新商品開発し、宣伝を競ったものだった。「また石鹸の詰合せをいたゞいちまったよ」という台詞を口になさったご経験おありの向きも、さぞ多かろう。
 「ウチはきっと、一生石鹸を買うことはないね」ご多分に漏れず拙宅でも、たびたび母とさよう云い交したものだった。脱衣場の上に吊った収納棚に、十二個入りだ二十個入りだという平べったいボール箱が、段重ねに積上げられていた。
 たしかに私は、洗顔石鹸を買った経験はない。洗濯洗剤やシャンプーや、風呂桶洗い用やパイプ汚れ取り用の液体洗剤は、底を突けば補充するが、固形の洗顔石鹸を商店にて買ったことは、一度もないのだ。

 しかし偉いもんで、あれほど高く積み上っていた段重ねのボール箱が、気がつけばめっきり低くなっている。ともすると、固形の洗顔石鹸を商店にて買う日が、私にも訪れるのだろうか。などと一瞬は考えたのだったが、あるとき気紛れに、箱類を棚から降してフタを開けてみて、愕然とした。個数の少ない箱ほど上に積んであったらしく、残り数箱は、ニ十個二十四個入りの大箱ばかりだ。
 私はあとなん年シャワーを浴び、台所で手洗いし、草むしり後に軍手を洗わなければならないのか。これだけの石鹸を使いきれるように、健康維持しなければならぬということだろうか。容易ならざる事態である。

 軍手を干し了えて、どれ一服と、煙草に火をつけ、缶珈琲のプルを引っぱりながら、一週間前の現場を視渡す。ドクダミヤブガラシを主敵と目していたために、目こぼししがちだったシダ類が、絶好の機会到来とばかりに背丈を伸ばしてきている。
 彼らに甘い顔を見せたのは、考えあってのことで、ついウッカリしたためではない。彼らは根も茎も弱い。ドクダミヤブガラシの茎や蔓や地下茎に較べれば、なんの抵抗力も持たぬに等しい。ひとたび気を入れて抜きにかゝれば、アッという間に殲滅可能だ。
 蘚苔類やドクダミに地表を占有されても、空気と陽光を求めて上空へ顔を出すべく、彼らは尋常でない伸長力を武器としている。とにかく速い。その代り、組織の構造としては脆く、弱い。遠い先祖は、風雨の影響を受けて折られ、倒され続けたのだったろう。陽光は受ける。次世代繁殖のための胞子は葉裏へ隠す。そして風雨を可能なかぎりやり過す。いなす。耐える。気が遠くなるほどの試行錯誤の結晶が、こういう葉の形状なのだろう。
 その研究進化は多とするが、私としては抜きやすい。与しやすい相手だ。

 今日はめったに足を踏み入れぬ地域の草をむしったのだったが、場違いのように蝶が一羽翔び出てきた。そこらの葉裏で羽化したものだろうか。それともたんに休んでいただけか。
 私が移動するのに纏わりつくかのように、周囲でヒラヒラ遊んでいる。それならばと思い立ってレンズを向けた。なかなかじっとしていてはくれない。ようやく二回シャッターを切ったところで、もう好いでしょうと云わむばかりに、道路を超えて南へ去っていった。

微生物君たち大移動



 一週間あまり陽にあぶられ、雨にも打たれ、石を載せたブロックがだいぶ地に沈んだ。穴に詰めた枯草が密度を増し、地に馴染んできたのだろう。


 重しをどけてみると、ブロックの跡が見事にへこんで、一面に白くカビが生えている。枯草の下に敷きこんだメロンの皮が、猛烈な勢いで発酵していると見える。ダンゴムシや名も知らぬ小虫に混じって、微小な赤アリが活動している。匂いに釣られて、出張ってきたものだろう。食われたり刺されたりすると、痛かったり痒かったりして、あとが面倒な奴である。
 余談だが、アリという連中は図体の巨きい奴ほど、気性が優しい気がする。めったに人に食いついたり刺したりはしない。まただいぶ以前に、公園のベンチに腰掛けて、タイル敷きの地上を忙しく作業して廻るアリたちを観察したことがあったが、タイル間の溝で巨きい奴と小さい奴とが正面衝突しそうになると、決って巨きいほうが身をかわすという習性を発見したことがあった。

 さて穴埋めだが、前回は枯草を穴に詰めることにばかり頭が行って、ろくに土を掛けなかった。放っておいても、微生物など周辺からいくらでもやってくるだろうと踏んでいたからだ。だが微生物の目盛で考えてみれば、餌の塊だけが大量に詰められて、微生物自身の個体数が足りなかったことだろう。


 今回はまず、スコップに軽く二杯ほどの土を振りかける。数え切れぬほどのなにものかが棲息していることだろう。動物寄りの微生物たちだ。餌と植物寄りの微生物であるカビとが豊富な地へと、突如投げ込まれたことになる。
 その上からさらにたんまりと、枯草を詰めこみ、盛上げることとなる。

 枯草は眼と鼻の先、私の足で四歩か五歩の所に、格好の山がある。いや一週間前には山だったものがすっかり嵩を減らして、なだらかな丘になっているものがある。表面部分を抱え上げようとすると、ジャワジャワと鳴って粉となり地に降るほどの、見事な枯れようだ。剪定鋏で切り刻めばもっと密度を稼げるのだろうが、そこまで親切に手をかけるにも及ぶまい。生前茎だった部分も、あっけなくポキポキ折れるから、折り曲げたり引きちぎったりしながら、穴に詰めてゆく。
 ところが見事に枯れ尽しているのは山の表面だけだ。地表近くは降雨を貯めてじめじめしていて、植物の死骸も黒々と腐りかけている。例によってダンゴムシとハサミムシのコロニーとなっている。
 丘の半分ほどを穴埋めに使い、残りは乾燥を促進させるべく、上下を返した。ムシたちを突如襲った災厄は尋常でなく、パニック状態で四散してゆく。

 かくして穴に枯草を詰め、さらに盛上げた。最高級の将棋駒が、小刀で彫った字のうえに膠で溶いた墨を詰め、さらに盛上げるようなもんだ。ブロックと石とをふたたび頂上に載せる。安定せずグラグラする。質量と重力の天然自然によって安定を得るまでには、なん日かを要することだろう。
 猛暑の時期に較べれば、陽射しがかなり優しくなってきたとはいえ、作業する老人にとっては楽ではない。本日作業はこれだけで切上げにする。