一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

豪勢

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 バナナは野菜です、拙宅では。好い時代となりました。

 「サツマイモはすでに、フルーツです」との広告コピーに、上手いこと云いやがってと思っていたのが、あながちオーバーでもないんだなぁと認識を変えさせられた機会が、先日あった。品種改良の凄まじき成果に、改めて舌を巻いたわけである。
 野菜か果物かの線引きも、またそれぞれのなかでのヒエラルキーも、世につれということだろうか。

 NHK人形劇『チロリン村とくるみの木』では、下町の野菜村住民と山手の果物村住民という区分を背景に、クルミのクル子ちゃん(里見京子さん声)やピーナツのピー子ちゃん(黒柳徹子さん声)が狂言回しとなって、あれこれの物語が展開した。
 山手の一等地には洋館の豪邸があって、バナーナ夫人(高橋和枝さん声)が住んでおられた。庶民とは話しが合わぬとばかりに、いつも気位高く登場しては「○○ザァマス」と云い残して去っていった。

 ある年齢(どれくらいだろうか?)以上の日本人にとって、バナナは高級フルーツの象徴であって、見舞いや供物の果物盛合せ籠の中心に、もしもバナナがデンッと据えられていると、スゲーッとなった。
 お金持ちの家だけで食される果物だった。庶民にとっては、重病で寝込みでもしない限りは口にする機会のない果物だった。

 お不動さまの縁日で、圧倒的な集客力を誇ったのはバナナの叩き売りだった。香具師による緩急自在の口上にそゝのかされるようにして、十五本以上も着いた大きな房が次つぎ売れてゆく様に、子どもたちは眼を白黒させて、また溜息するような想いで、眺め入った。
 豪華なバナナはアッという間の早業で古新聞に包まれた。金と引換えに受取ってゆく客を、どんな人だろうかと、じっと視た。
 大人たちの腋の下をかいくゞるようにして、最前列にへばりついたまま、動かないでいると、
 「さてお客さま、今日は子どもたちがいるから、この先は云えない」
 なんていう口上が出てきて、もし僕がいなかったら、どんなことを云うんだろう、聴いてみたいもんだと思った。

 いつの時代からか、バナナの値段がどんどん安くなってゆき、珍しくもありがたくもない果物になってきた。閉店間際のスーパーで、安売りバナナが売れ残っている光景を眼にすると、今でも独特な想いに誘われる。
 かといって、間に合っていれば、私だって手を出しはしない。常備野菜のひとつに数えてはいるが、保存期間が長くはないので、むやみ買いは禁物だ。

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 現在の私にとってバナナは、もっとも手抜き可能なサラダ野菜のひとつだ。
 薄切りにして器に盛るだけ。擦り胡麻と、シソふりかけと、七味唐辛子を微量。それにカロリーハーフのマヨネーズをかけるだけである。
 これで十分、食事の口火切りとでも申そうか、はたまた口を準備させる斥候兵とでも申そうか、つまりはサラダの役割を果してくれる。

 ナニを切らした、カニを切らした。しかたない、サラダはバナナにしておくか……。
 なんと豪勢な時代となったもんだろうか。