一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

反国家

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尾崎秀実(1901‐1944)

 木下順二の代表作のひとつ、戯曲『オットーと呼ばれる日本人』は実話をもとにした現代歴史劇だ。軍国日本を弱体化させるべく尽力した、コミンテルン(国際共産党)指導のスパイ事件、世に云うゾルゲ事件を題材にしている。キーパーソンがリヒャルト・ゾルゲという男なので、事件はそう称ばれている。

 日本側のキーパーソンは、暗号名オットーこと尾崎秀実(ほつみ)だ。東京に生れたが生後わずか数か月にして、ジャーナリストだった父が台湾の新聞社へ赴任するのに伴われ、台湾で育った。多くの差別実態を眼にしつゝ育ったという。
 旧制一高から東京帝大法学部へ。そのころ(大正時代の末)最初の共産党員一斉検挙や、大杉栄夫妻虐殺事件などがあり、刺激を受けて共産主義文献を研究し始めた。
 大学院を中退して朝日新聞に入社してからも研究は続き、朝日を退社して満鉄調査部に籍を置きながら、中国問題の専門家として雑誌評論を数多く書いた。近衛文麿内閣の嘱託にもなった。首相側近ブレーンだ。
 大学での同期に羽仁五郎がいたり、海軍内部に通じる親友がいたりして、体制・反体制双方に広い人脈および情報網を築いた。

 雑誌評論では、中国戦線の縮小案や和平案が現れると論破し、徹底して対中国強硬姿勢論と長期戦論を扇動した。日中戦争を泥沼化させることで、軍国日本を弱体化しようと企てたのだった。
 独ソ不可侵条約を一方的に破棄して、ドイツがソ連侵攻を開始するや尾崎は、印度支那半島への南進論の論陣を張った。日本とドイツとが東西から、ソ連を挟み撃ちする事態を避けるためである。

 尾崎の中国考察はことのほか精度が高く、近衛首相にも信頼され、その主張するところは政策に反映された。
 だが昭和十六年、暗躍は発覚し、ゾルゲともども逮捕された。天皇に対し近衛首相は「わが不明のいたすところ申し開きようもなく」と、最大限の謝罪をしたという。

 結審し死刑判決を受け、獄中にあるうちに昭和十九年となり、知識ある者の眼に戦局は敗色濃厚。ともすると体制が変ることでもあって処刑を免れるのではないかと、近しい者らは期待し始めた十一月七日、突然のように尾崎とゾルゲの絞首刑が執行された。昨日から数えて、七十七年前のことである。

 刑が確定して外部との音信が許されてからは、妻英子に宛てゝ、圧倒的な量の手紙を書いた。長年パーカーの太字万年筆を愛用してきた尾崎だのに、便箋にも葉書にも、細字ペンで細かい字をびっしりと書いてきた。
 昭和二十一年九月、それら書簡に遺書を併せて、『愛情はふる星のごとく』が刊行された。

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 戦時中の空気にあって、またメディアによる偏った決めつけによって、当然ながら国民のおゝかたは、尾崎のことを逆賊・国賊売国奴と、また危険思想を抱いた狂気の人と、思い込んでいた。
 だが書簡集は語る。妻を気遣い、娘を想い、周囲の人びとへの配慮万端漏らすことなき、まことにもって情理を尽した名文である。話題を呼び、戦後出版界の一事件とも称すべき、群を抜いたベストセラーとなった。
 情報漏洩を予防したか、災難に巻込ませまいと図ったか、活動については夫人にさえひと言も漏らしたことはなかった。その代り警察にも司法にも、尋問に対しては、語れることはなんでも包み隠さずに語ったという。大量の調書が、今日歴史資料として残っている。

 反ファシズムの一点で、ゾルゲと尾崎とは共闘したが、二人の理念は異なっていた。ゾルゲは考えた。ファシズム国家など完膚なきまでに消滅させてしまえ。が、尾崎は考えた。この国民と国土とが悲惨な事態を迎えることだけは、断じて避けねばならぬ。そのための反ファシズム闘争だ。
 幼きころ台湾で視た、差別され虐げられて過す庶民の姿が、尾崎の脳裡には浮んでいたことだろう。
 この国と国びととを愛してやまぬからこそ、今、反国家である。尾崎は自分を、愛国者のはしくれと、自覚していたろう。自分を冷静沈着な世界平和主義者と考えているらしいゾルゲとは、まったく異なる。

 尾崎の内面に巣食った、愛国と反国家の矛盾。そして目的を一にしながらもゾルゲと尾崎との対立。これはドラマになる。木下順二はさよう眼をつけたのだったろう。