一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

報せてない



 学友から一斉配信の緊急メール。訃報だ。どっちが先かのぅと語りあった仲間うちから、また一人。

 文学少年仲間のうちで、もっとも早熟な奴だった。へぇずいぶん大人びたものを読んでるんだなぁと、いく度も感心させられた。が、互いに影響を与えあうことはなかった。あまりに相違するところが顕著だったからだ。
 彼は芸術家意識が高かった。作品がすべてで、作者などは作品の陰に隠れろと云いたいほうだった。私は、人間が文学するのであって、作品などは後からついてくるもんだと云いたい少年だった。彼の眼に私は、芸術とは縁もゆかりもない、埃っぽい下世話な奴に過ぎないと見えていたことだろう。私にしてみれば、へんっ、せいぜい箱庭でオ芸術していやがれっ、と申したかった。
 が、なにかと気が合い、仲が好かった。共通点もあった。双方とも家庭内にあっては、一人息子だった。

 不思議なもので、その後半世紀の生きかたは、あべこべになった。
 彼には、宿命的に背負わされている、あまりにも巨きなものがあった。家業は水源を江戸時代に発する、家具金物の大問屋だ。家具調度や建具の重要部分をなすあらゆる金属部品につけては、国内有数の総合商店である。片方で多くの町工場や職人衆を束ね、もう片方では建築・内装関係各社や商店などの得意先を維持してゆかねばならぬ、文字どおり世間になくてはならぬ実業そのものだ。
 お父上は会社を古い業界体質から脱皮させて、近代企業として生れ変るべく生涯を捧げた、いわば大旦那さんだ。数え切れぬほどの下請けさんや職人衆、お得意さんがたの命と暮しが、大旦那の手腕に支えられていた。
 当然ながら、半生のご尽力の跡を、一人息子に継がせたいとの念願をお持ちだった。息子が明日をも知れぬ文学風来坊に身を落すことなど、許せるはずもなきことだった。

 そこへゆくと私のほうは、出来の悪い馬鹿息子が親から勘当されようが、家系が途絶えようが、世間さまにはなんらご迷惑をおかけすることなどない。食い詰めて野垂れ死にしようとも、泣くの嘆くのは身内ばかり。すべては自業自得。彼の環境とは大違いだった。
 青春のスッタモンダ。そりゃあいくらもあった。こゝじゃあ書ききれない。ともかく彼は病が癒えた。勉強し直した。アメリカ留学もした。家業を継いだ。平成期の社長として、高級インテリアとお洒落なライフスタイルを提案する、時代の要請に応じた企業に変貌させて見せてくれた。

 学生時分だったか、お父上がたった一度だけ、私にご馳走してくださったことがあった。どうか息子には内緒でと釘を刺されて、近隣で一番の老舗洋食レストランに呼出された。メニューを視たところで、私は料理を選ぶこともできず、ハンバーグステーキをくださいと、お応えしたのだったと思う。
 ―― 文学するって、どういう人生になるもんかね?
 ―― 息子には才能あるだろうか、君から観て、率直にどう思うかね?
 ―― 参考までに君の場合は、文学と自分の将来との兼合いを、どう考えてるかね?
 ―― 重ねてお願いするが、今日のことは、なにぶん息子には内緒で。

 互いの四十代ころ、酒場の隅っこでだったろうか。社の発展ぶりに敬意を表して、文学なんぞから足を洗えて好かったじゃないかと、水を向けてみた。二人だけの場でなければ、これは口にできない。
 ―― 冗談じゃねえやい。屈辱と後悔さ。
 あまりに芽の出ぬ暮しを続けている私への、思いやりでもあったろうけれども。

 六十代になってから、立食パーティーでだったろうか。やはり二人きりの一瞬に、水を向けてみた。今から小説ったって興が乗らねえだろうから、どうだい、回想録でも旅行記でも書いてみちゃあ。
 ―― 書けやしねえだろうなぁ、きっと。

 焼香し、当家ご宗旨など無視して私流に、光明真言を三度唱えた。ご遺族のお許しをいたゞいて、亡骸の枕元に寄り、声に出して話しかけた。
 ―― あのころなぁ。あの後なぁ。それからってもんはなぁ。ご苦労さん。
 お若いご遺族がたには、なんのことやらご想像もつかなかったことだろう。
 お父上からハンバーグステーキをご馳走になったことは、まだ報せてない。