一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

送られてみて

三木のり平(1924 - 99)

 自分の値段なんて、棺桶に片足突込んでみなけりゃ判るもんじゃねえや。昔から云われる。いゝえ、両足突込んでの誤りでしょう。

 伴淳三郎(1908 - 81)が亡くなったとき、葬儀の進行演出が三木のり平に託されたという。多数の、しかもさまざまな業界の参列者が予想される葬儀だ。故人ならではの、当りまえでない葬儀が求められた。喜劇俳優の後輩として故人をよく知り、舞台演出家でもあるのり平さんが依頼されたのだろう。
 これぞ伴淳を送る葬儀という、とっておきのアイデアが、のり平さんには閃いていた。大きな賭けだった。もしも裏目に出たら、つまりスベッたら、厳粛たるべき葬儀に不謹慎だ、なんてことしてしてくれたんだと、批難ごうごうは避けられまい。百戦錬磨ののり平さんも、迷いに迷った。が、決断した。

 当日、読経焼香と段取りは滞りなく進行し、棺は斎場へと向うべく霊柩車に移された。葬儀会場にも沿道にも、見送る人びとが列をなしている。クラクションが鳴らされる。車がゆっくりと動き出す。と、その時、
 ♬ チャンチャカ チャカラカ スチャラカチャン~
 花笠音頭のイントロがあたりいっぱいに流れた。のり平演出の眼玉だ。
 伴淳さんが郷里山形県をどれほど愛し、山形弁をギャグにもし、シリアスな役を演じるさいにも役創りとして山形訛りを活用していたか、知らない参列者はない。「あゆみの箱」ほか慈善事業を主導するさいにも、温かみある東北言葉でいかに説得推進してきたか、知らない参列者はない。
 言葉にならぬ呟きとも吐息の集りともつかぬ低い音が、会場に満ちた。ご婦人がたはいっせいに、一度仕舞ったハンケチを再び取出した。沿道にはすゝり泣きが続いた。
 なるほど、演出とはさようなものか。逸話を聴いて、私はなにかが判った。

ドナルド・バード『A New Perspective 』

 これは戯言だが、私が逝くときには、なにを聴かせてもらおうか。そんなもん、時期により気分により変化するにちがいないが、この数年は動いていない。ファンキーで売ったドナルド・バードが一転してゴスペルを試みた『新視覚』というレコードがあって、その三曲目の「Cristo Redentor」を聴きたいかもしれない。

 と、こゝで声がする。自分が想い描く自分像ほど当てにならぬものはない。しょせんは人さまが描いた私像の集約や平均が、かろうじて自分ってことだ。自意識だの志だのって七面倒臭いもんは、どれもこれも実在するもんじゃない。さらに厄介なことに、私が生きてるあいだは、人さまは私への率直な批評など、私の前で口にするわけがない。つまりは、本当の自分像なんぞというものは、生きてるかぎり自分には判らぬようにできている。
 だがね、と声は続く。人は自意識なしに生きていられやしない。唯一の慰めになる場合すらある。志なんてもんも雲を掴むような噺だが、それなしには生きられぬ人だってある。死んだあとでも人さまの記憶に残る自分像を、生前からきちんとしておきたい欲求が、生きかたを支えてくれている。
 とはいうものの、と声はまだ続く。どれもこれも実在するわけじゃない。縁側の昼寝で視た夢みたいなもんだ。辻褄なんぞこれっぱかりも合っちゃいない。だというのに人間ときたら、そんなあやふやなもんにすがって生きてきたんだし、これからも生きようと云うんだから、考えてみりゃあ頼りないもんだ。どうせ思いどおりになんぞ、ならぬに決ってるのに。
 堂々巡りの往ったり来たり。アッ、これって正宗白鳥の声だ。今日が歿後満六十年目のご命日である。