一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

機嫌指数

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 世間さまとのお付合いやお取引きを、おゝかたご辞退申しあげていると、ニュースや流行に左右される機会も少なくなって、さぞや心おだやかに過せていることだろうと、誤解される。
 とんでもない。暮しぶりの振幅が小さくなろうが、行動半径が短くなろうが、気分の盛衰も機嫌の良し悪しもなくなりはしない。

 玉葱の皮が上手に剥けなかった日は、不機嫌である。ふたつの場合がある。
 一番目はちょうど好く向けなかった場合だ。指の爪先で引掻くようにして皮の端っこにツマミを起し、そこを抓んで剥く場合と、包丁の手元寄りの角を皮と身のあいだに差し入れて剥く場合とがあるが、どう剥くかは玉葱の成熟度と新鮮度による。皮を剥きやすい個体とそうでない個体があるのだ。
 どちらの剥きかたにも、一番目の危険性はある。こゝらが皮と身の境界かと見当をつけて、えいっと剥いてみたら、まだもう一枚皮をかぶっていたとか、逆にもったいなくも、身まで一枚剥いてしまったとかの場合がある。
 前者であればもう一度剥き直すわけだから、腹立たしい。後者であれば、剥き過ぎた分をていねいにはがして、身のほうへ戻してから、次の包丁へと移らねばならない。
 いずれにせよ、愉快ではない。

 二番目は、その玉葱君が畑にいたとき、どっちを向いていたか、収穫後の乾燥時にどんな姿勢だったかなどの加減だろうか、皮部分と身部分のあいだに、半分皮で半分身という、ツートンカラーの一枚がかぶってある場合だ。
 植物としては成長の証かもしれぬが、野菜としては生鮮ではないと、二念なく生ゴミ行きにしてしまう主婦も多かろう。貧乏性が災いしてか、私はどうも、それができかねる。外科ドクターのメスよろしく、包丁の先でツートンカラーの境界を切り分けたくなるのである。その部分が、生鮮野菜として上出来部分とは申しがたいと、承知しつゝもである。
 だれも視ちゃいない、天下の形勢にも影響ないし、わが家計だってその程度は耐えられよう。が、オテント様はご判断になる。さよう考えると、面倒な判断を押付けられたものよと、不愉快である。(写真は別。これは純度100の身。)

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 卸し業者さんに繋がりがおありとかで、近所の奥さまから季節ごとに「とろろ昆布」を頂戴する。大好物だ。おかげさまで一年を通して切らせたことがなく、ありがたい限りだ。
 かつては椀にたっぷり取って、鰹節も入れ、醤油を少々差して湯を注ぎ、即席の吸物椀とした時期もあった。近年その習慣からは遠ざかっている。二度の病気療養を経て、粥飯を常食とするようになって、味噌汁であれ吸物であれ、椀を添える習慣を捨てたからだ。
 粥の風味づけに少々、煮物などの出汁の応援に少々というように、年間をとおして毎日のようにひと摘みづつ使わせていたゞいている。ために減りかたは、日ごろ眼に見えない。減っているとも思えない。

 その袋がついに底を突き、最後のひと摘み。そして新しい袋の封を切る。奥さま、ひと摘みも無駄にすることなく、全部いたゞきました。
 ちょいと好い気分だ。今日は玉葱で-0.5 。とろろ昆布で+1 。まぁまぁの日だ。